はいさーい!!心元気ですか??今日は、しげちゃんがお休みなので変わりに書いてみよっかな
と思いますじゅんです
今日の砂辺は天気も良くなって、海も穏やか~でダイビング日よりです
ねっ
もういっちょ
今日の砂辺
風向き 北東
波高 1・5~1・0メートル
気温 22℃
体験も講習もFUNも全部OKで~す
今日は、インテリな感じのブログに挑戦します
ズバリ『北谷の歴史』
美浜やハンビ~が栄え、アメリカンビレッジもでき、北谷町は活気溢れる街となりました
でも、むかしのことを調べてみると意外や意外、なんとも苦難に満ちた歴史が・・・
むか~しむかし、嘉手納と北谷はひとつでした。 第二次世界大戦で、ひとつの村を二つに分断してしまいました
戦後、二つに分断され基地の街北谷がスタ~トしたのです。 そのむかし
北谷は9つの村.安仁屋.北谷.桑江.平安山.砂辺.野国.屋良.嘉手納.山内からなっていました。. 尚真王3年 寛文11年西暦1671年の宜野湾間切創設の際に安仁屋を宜野湾間切へ、山内を越来間切に それぞれ編入しました。 残る7つのむらを分割して新しく5つのむら 玉代勢.伝道.伊礼.浜川.野里 を増やし、12むらにしたと言われています。
按司時代においては按司の攻伐とともに区域が変動し、「むら」の分割、新設は明治時代まで続いたようです。
村制を施行
明治4l年西暦1908年に特別町村制がしかれた時、12の「むら」はそれぞれ「字」となり、 間切は村と改められました
行政の運営にあたる役場は、当時の村の中央部に位置する浜川(かねひでのあたり)に設置されました。 しかし第ニ次世界大戦を境に北谷は大きく変貌していきます。
第ニ次世界大戦未期の昭和20年4月、米軍が北谷海岸から上陸したため、 村民は北部の宜野座や金武への避難を余儀なくされました。 日本の敗戦によって、ようやく悲惨な沖縄戦が終わったものの、村全体は米軍の占領地となり 村民は帰る場を失ってしまいます
戦後の行政
戦後は村内への立入りが禁止されていたために、 昭和21年4月隣の越来村〈現沖縄市)に仮役場を設け行政を開始することになりました。
その半年後、昭和21年10月に、ようやく桃原地域の一部に居住が許されたので役場も移転し、 居住許可地域が嘉手納、謝苅と、次第に拡大されたので材民も次々と戻って来ました。
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